東海道と箱根八里

 

東海道の成り立ち

 

天正18年(1590)に江戸に入城した徳川家康は、慶長6年(1601)東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道の五つの街道と宿駅を制定。慶長9年(1604)には、街道の幅員を五間とし、一里を36町と決めて路傍には榎などを植えた一里塚を築かせた。また、街道の道幅を特定するために両側に並木を植え、あわせて旅人のための木陰を提供した。

東海道の箱根湯本からの道筋は、鎌倉時代から使われた中世東海道の尾根筋から谷筋に経路が変更された。元箱根から箱根宿までは中世の経路とほぼ同じで、箱根宿から三島宿までは中世の箱根越えの道の東南側に並行して新しく作られた。

箱根路、箱根旧街道とも呼ばれる東海道「箱根八里」は、険しい箱根山を江戸防衛の要として、三島側の西坂は関東に侵入する敵を発見しやすい尾根道、小田原側の東坂は外敵を迎撃しやすい谷筋に経路がとられたといわれている。

 

 

小田原宿

 

小田原が城下町として発展したのは15世紀末の北条氏の進出後で、城は拡張され、その守りの固さで上杉謙信や武田信玄をも退けた。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏は小田原城を明け渡す。領地は徳川家康に与えられ、その後西への防衛の要として大久保氏や稲葉氏などの譜代大名が小田原城に入った。

小田原宿は慶長6年(1601)に成立。江戸を発ってから九番目の宿場で、起点の日本橋からの距離は約80km。手前の大磯宿からは16kmあり、その間に間の宿の梅沢や酒匂川があった。

幕府は江戸防衛のため東海道の主要河川に橋を架けなかったが、酒匂川も延宝2年(1674)に徒歩(かち)渡しとなり旅人は川越人足の肩や輦台で川を渡った。次の箱根宿までは16㎞あまりあり、険しい箱根越えを控え、小田原宿に泊まり旅に備える旅人が多かった。

小田原宿には本陣と脇本陣が4軒ずつあって東海道で最多。旅籠の数は江戸時代後期で95軒あり、東海道最大級の宿場町であった。

 

 

箱根宿

 

小田原宿と三島宿の間に箱根宿が設けられたのは元和4年(1618)。徳川家康により宿駅伝馬制度が作られてから17年後である。箱根越えの道の険しさに難儀した参勤交代の大名たちからの要請によるものともいわれている。

当初、幕府は元箱根への宿場の設置を検討したが、箱根権現の門前町であったことから新たに芦ノ湖畔を開拓。小田原宿と三島宿からそれぞれ50軒を移住させた。旧箱根宿の中心部には、今も小田原町、三島町の名前が残る。

その後、江戸から10番目の宿場として規模を拡大。江戸時代後期には、問屋場2軒、本陣6軒、脇本陣1軒、旅籠の数は36軒あったとされる。

箱根は温泉場としても知られており、奈良時代の発見とされる湯本など歴史ある温泉場が複数ある。三枚橋で東海道と分岐する七湯道の沿線には、湯本、塔之沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯があり、江戸時代の初め頃から箱根七湯として親しまれた。

江戸から気軽に訪ねることのできる箱根は観光地として庶民の人気を呼び、浮世絵などにも多数描かれた。

 

 

三島宿

 

三島は古くから伊豆国の一宮である三嶋大社の門前町として栄えた。

江戸日本橋から数えて11番目の宿場町であり、三嶋大社門前で東海道と下田街道、甲州道が交差する交通の要所であった。江戸時代初期には、幕府の直轄地として伊豆国を管轄する代官所が置かれていた。

当時、伝馬、久保、小中島、大中島の4町あたりが宿場の中心地となっており、この四町が中心となって三島宿を運営していた。一の本陣と呼ばれた世古本陣と二の本陣・樋口本陣の2軒があり、脇本陣は3軒で旅籠の数は74軒あった。箱根越えを控えた旅人は三嶋大社に祈願をし、無事に箱根越えを終えた者は三島宿で山祝いをしたと伝えられている。

 

 

 

日本遺産「箱根八里」
旅人たちの足跡残る悠久(ゆうきゅう)の石畳道 - 箱根八里(はこねはちり)で辿(たど)る遥(はる)かな江戸の旅路
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